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★竹島と一宮・環状列石の不思議な関係
さて、長い間更新を怠り申しわけございません。決して怠けていたわけではありません。先月は沖縄に神社の調査に行って来ました。ここでも驚く発見があり、それに関係する研究にドップリと浸かっていました。4月も再度沖縄を訪ね、こんどは多良間島まで足を伸ばす予定にしています。
やはり、誰が何と言おうと、古代の沖縄や北海道が本土と同じ祭祀範囲にあったことは間違いありません。今回の沖縄での調査はさらにそれを確かなものとしました。こんなことを書くと、専門家ほど、そんな馬鹿なことをまた言っている、こんな馬鹿馬鹿しいサイトを読んでいられないと考えるに違いありません。
しかし、考えてください、沖縄や北海道の古代について何を知っているのでしょうか- わかっているつもりの人が多いと思いますが本当は何も知っていないことに気が付くでしょう。沖縄に関しては「おもろさうし」よりも国内で書かれた古い記載は見つからず、北海道にいたってはアイヌの伝承にすがるしかありません。あとは、わずかな考古学的な資料しかありません。
特に、沖縄や北海道に関する神社を研究している人はほとんどいません。これは、何度も書くように、沖縄や北海道の神社は明治期に造られたものとほとんどの人達が誤認していて、研究しても意味がないと頭から考えているからでしょう。
北海道の神社に関しては、その道の大御所である谷川健一氏ですら、間違った考えを持ったまま没してしまいました。また、沖縄の神社となると、日本の民族学に大きく影響を与えた柳田國男氏も、沖縄のウタキやグスクに興味を持ち、神社の研究を無視したままになっていました。度々、沖縄を訪れた後「来訪神であるまれびと」を提唱された折口信夫氏もここで本質に近づいたように見えましたが、結局はウタキやグスクなどの神秘的に見えるものに取り憑かれてしまい、中途半端な結論になってしまいました。残念なことに、その傾向は現在でも民族学者だけでなく、歴史学者や考古学者にまで継承されたままになっています。
参考 折口信夫と沖縄、琉球の宗教 谷川健一 日本の神々 第12巻
蛇足のような前置きを書いてしまいましたが、ここで図 K11、K12に戻ります。図K12にはまだ驚く事実が隠されているのですが、それを後回しにして図K11に戻ります。図K11を出来すぎていて信用できないと考えた人が多いでしょう。いつまで経っても常識から抜けられない人は「たまたま、竹島・沖ノ島・隠岐(西ノ島)の位置がそのように配置されていたもので偶然にしか過ぎない」などと考えてしまうことを危惧しています。
そこで、それが偶然ではなく、古代人が確かに竹島の位置を認識していたことがわかる別の証拠を示すことにしました。ここでは、先の前置きが蛇足ではなかったことに気が付くに違いありません。
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図 K13 驚く直角精度を持つ 由良比女神社(隠岐國一宮)-竹島-久遠神社 を結ぶ線、その補正内角は90.01゜ |
図K13はそれを示します。由良比女神社(隠岐國一宮)を出発した線は竹島(東島97mのピーク)を通り久遠神社(くどおじんじゃ、北海道久遠郡せたな町大成区本陣71)に90.01゜のすばらしい直角精度(補正内角)で到着します。これまで、遠方に到着する線は必ず神社群中心に到着する規則があると何度も説明しています。もし、久遠神社が神社群中心の位置にあれば、図K13に引いた線は確率から見て、信頼性の低いレイラインと違って、桁違いに信頼性の高い線になります。そうなら、北海道の神社は明治期にできたと未だに信じている人達は驚きで声も出なくなるでしょう。
2015.2.19 記
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図 K14 驚く直角精度を持つ 宇部神社(因幡国一宮)-竹島-知床稲荷神社 を結ぶ線、その補正内角は90.17° |
図 K13で久遠神社が神社群中心であることを説明しても、偶然の一致にしか過ぎないと考える人がいることを危惧して、その前に図 K14を示します。ここでも
因幡国一宮(論社)である宇部神社を出発した線が竹島を経由して90.17゜の高い直角精度で礼文島にある知床稲荷神社に到着しています。
こでも、まさか-、これも偶然かまたは、「北海道には神社が少ないが2千数百社はあるので、ちょうど直角になる神社を探せば見つかるに違いない」などと考える人は多いでしょう。そうですね、たとえ北海道の神社に関して谷川健一氏の考えが間違っていることを認めても、「古代の北海道と因幡国と関係があった」など、とても考えられないと言う人は未だに多くいるに違いありません。
確かに、記紀の記載から見る限り、北海道は蝦夷地ですから、どうしても図 K13や図 K14が計画的に行われたなど、とても考えられないと思うのは当然かも知れません。しかし、考古学から見ると知床稲荷神社のすぐ近くにある船泊遺跡からは、南方産の貝で作ったアクセサリーや新潟県産のヒスイ製品が出土していて、記紀の記載そのものがむしろ不自然であることがわかります。言い換えれば、記紀の北海道に関わる記載は何の証拠もないのです。なぜ、こんなに証拠もないものを頭から信じ、厳然とした証拠のあるものを無視するのでしょうか-
ここで、誤った常識から未だに抜けることができない人は「また、縄文時代と神社を一緒にするなどとんでもない!!」とした意見もあるでしょう。そこで、次の証拠を図で示します。これでも、北海道の神社は明治期に造られたものであると言い続けるとしたら、その人達はもはや探究心が微塵もなく、古代史を研究する資格など全くない人達であると断言してもいいでしょう。これでも証拠が不足なら、まだ別の証拠もあります。
知床稲荷神社は誰も注目していない神社ですが、はじめてHSCPを紹介した記事として、エレキジャック サイエンス No.1(CQ出版社)ですでに神社群中心であることをストーンサークル(朱円環状土籬)と共に説明している神社です。もちろん、この記事を書いた時点では、古富士との関係がわかっていたたけで、竹島と関係しているなどとは考えてもいませんでした。
注;知床稲荷神社については
★北海道の神社について
図S63 ③大正島-④月ヶ岡神社-⑤知床稲荷神社の作る正確な直角」
図S64 直角線、大正島-月ヶ岡神社-知床稲荷神社のピギーバック配列」
図S65 ④月ヶ岡神社(母島)から⑤知床稲荷神社に到着した線は直角で⑥樺岡不詳神社に到達する
でもすでに登場している神社です。
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図 K15 驚く直角精度を持つ 一宮神社(阿波国一宮)-竹島-知床稲荷神社-朱円環状土籬 を結ぶ線、その補正内角は90.06゜ |
図 K15は阿波国一宮(論社)である一宮神社を出発した線が竹島を経由して90.06度の高い直角精度でストーンサークル(国土地理院の表記)に到着することを示しています。
ストーンサークル(朱円環状土籬)も神社群中心で、エレキジャック サイエンス No.1(CQ出版社)に紹介済みのポイントです。このポイントも知床稲荷神社と同じように、この記事を書いた時点では、まさか竹島や一宮と関係するポイントであるとは、全く考えていませんでした。図のような関係がわかっとき、一番驚いたのは本人そのものです。本当に不思議なことがあるものです。その不思議はまだ続きます。
ストーンサークルはなぜか国土地理院の地図にある呼び名ですが、環状に土を盛り上げたもので環状土籬と呼んだほうか実態をイメージしやすいと考えています。
北海道の神社の数は国土地理院の地図に記載されているもので千数百社です。その中で神社群中心の条件を満足する神社は数十社しかありません。一方、北海道の神社がランダムに配置されているとしたら、図のような一点から出発し、竹島から0.1度以内の直角精度で到達する大雑把な確率は千分の一以下です。したがって偶然に図
K12からK15のような事象が続けて起きることはほとんど考えられません。不確かな記載が満載されている記紀と比較すれば、信頼性では無限大ほどの開きがあります。
エレキジャック サイエンス No.1(CQ出版社)で知床稲荷神社を紹介したときは、まだ補正内角の考えがなく、遠方に引く線ほど誤差が大きくなり悩んでいた時期でした。まだ発表していませんが、地図を持たなかったと考えられる古代人がなぜ遠方の方角を精密に知ることができたかを考えているときに、補正内角の考え方に到達しました。ここで、知床稲荷神社の図を訂正し、補正内角で計算した値で示します。その値は、以前88.34゜だったものが90.44゜となって、より直角に近づいた値になっています。
図 K16 知床稲荷神社で示した図の訂正 88.34→90.44゜ |
図 K16はストーンサークル(朱円環状土籬)の干字状パターンの一部でもあります。それはすでに★ストーンサークルの干字状パターンで説明しています。
図 K17歯舞群島に於ける神社存在の予測(赤線上にかって神社があったはず) |
図 K16で干字状パターンの上部右側に相当する線の歯舞群島部分を拡大したものが図 K17になります。残念ながら、現在はそれを確かめることができませんが、かつては、図にある水晶島または、勇留島の赤線上のどこかに必ず神社があったものと考えています。
2015.2.21 記
縄文遺跡と神社の関係は発祥も時代も異なるとするのが一般の常識です。したがって、図 K15はどう考えても偶然に違いないと考える人が多いでしょう。そこで、図 K18を示します。ここでは、美作国一宮である中山神社を出発した線が竹島を経由して90.05゜の高い直角精度で釜石環状列石に到着していることを示しています。
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図 K18 驚く直角精度を持つ 中山神社(因幡国一宮)-竹島- 環状列石(曽我北栄環状列石)を結ぶ線、その補正内角は90.05° |
それでもまだ信じることができないと考える人は次の図 K19を見てください。ここでは、土佐国一宮である土佐神社を出発した線が竹島を経由して89.84゜の高い直角精度で釜石環状列石に到着していることを示しています。
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図 K19 驚く直角精度を持つ 土佐神社(土佐国一宮)-竹島-釜石環状列石 を結ぶ線、その補正内角は89.84° |
さらに、まだ信じることができないと考える人は次の図 K20を見てください。ここでは、新居郡一宮である一宮神社を出発した線が竹島を経由して90.16゜の高い直角精度で湯舟沢環状列石に到着していることを示しています。
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図 K20 驚く直角精度を持つ 一宮神社(寄居郡一宮)-竹島-湯舟沢環状列石 を結ぶ線、その補正内角は90.16° |
これでも満足しない場合はまだ証拠ががあります。
2015.2.26 記
★北海道の神社に関する大きな誤解
竹島から北海道につながる線を見て、やはりこのサイトはトンデモサイトに違いないと、去ってしまった人もいるようです。そうですね、これは予想していた事態です。その道の権威者、谷川健一氏も北海道の神社は明治期にできたとして、その様子を開拓者が杉の根の位置を神社とした様子を「日本の神々 第12巻」に誇張して書いています。多くの人達がそれを北海道の神社の歴史であると勘違いするのは当たり前です。
しかし、良く読んでください。ここでは明治政府が「怪しい迷信に惑わされて小祠を信仰することを禁ずる」令を出したとも書いてあります。この意味を裏返せば、北海道の原野を開拓したときに、そこには、すでに由緒不明な小祠がたくさんあったことを語っているのです。その由緒不明な小祠を谷川健一氏は説明できなかったのでしょう。もし、仮にそれを説明しようにしても、万世一系に反するようなことは書けなかったはずです。北海道の神社の常識はこんなところから生まれたに違いありません。
現実には、北海道の神社のほとんどは本土の神社の配列と同じHSCPの法則のなかにぴったりと収まっているのです。もし、北海道の神社の発祥が杉の根の位置に建てたことから始まったとしたら、その分布はランダムになり、決してそのような規則性を持つことがなくなることは容易に理解できるでしょう。
恐らく、明治政府の禁令は辺境の北海道にはなかなか届かなかったか、無視されて小祠の位置に神社が建てられたのでしょう。そして、本土から名前の知れた神社を勧請すれば名前だけでなく、その神社の由緒や創建時期も新しくなってしまいます。ここで、小祠のことは意図的に隠されるか忘れられてしまうのです。このようなことは、北海道に限らず、日本全国で行われたのです。神社の由緒から、真の歴史を調べようとしても満足する結果がなかなか得られない理由がそこにあります。ましてや、祭神から何かを掴もうと考えるのも同じ理由で困難です。
それを確かにする目的で、北海道に到着するもう一つの例を図K21に示します。ここでは、備前国の一宮である石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)を出発した線が竹島を経由して90.10°の高い直角精度で鷲ノ木遺跡に到着していることを示しています。この到着位置鷲ノ木遺跡もストーンサークルがあり、その中心位置は周辺の神社に対する神社群中心になっていて、直角線の端点の収斂する位置となっています。
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石上布都魂神社は明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建された。 とありますが、現神社位置から竹島に引いた線がちようど旧位置の山頂を通るので、現位置でも旧位置と同じ補正内角になります。 鷲ノ木遺跡の緯度・経度は北海道教育庁生涯学習推進局文化財・博物館課文化財調査グループからの値に訂正(2015.3.10) |
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図 K21 驚く直角精度を持つ石上布都魂神社(備前国一宮)-竹島-鷲ノ木遺跡 を結ぶ線、その補正内角は90.10゜ |
2015.3.2 記
これまで書いたように、竹島からかつて蝦夷地と呼ばれていたエリアに、まるで神が引いたように正確な直角精度で線が到着する様子を見て、信じられないと思う人は多いでしょう。この事実を見て、専門家であればあるほど、大きな衝撃を受けたと考えています。そして、どこかトリックがあるのではないか-と益々疑いが強くなっているかも知れません。
しかし、この事実には何の裏もありません。データはすべて国土地理院の公式データしか用いていません。計算式も後項に追加したように、公式に認められている式を利用しています。誰がやっても同じ結果が得られるもので、捏造する余地も全くありません。
これまでの図は、かつて蝦夷地と呼ばれていた地域を含んでいたので、疑いも多かったかも知れません。そこで図K22を示します。
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図 K22 驚く直角精度を持つ海神神社(対馬国一宮)-竹島-森山遺跡 を結ぶ線、その補正内角は89.98° |
ここでは、対馬国一宮である海神神社を出発した線が竹島を経由して89.98°の高い直角精度で森山遺跡(拳大の礫によるストーンサークルを持つ)に到着していることを示しています。西日本は東日本と違って、環状列石が極めてわずかしかありません。そのわずかの数しかない環状列石にぴったりと到着していることは驚きそのものです。
2015.3.4 記
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図 K23 驚く直角精度を持つ二荒山神社中宮(下野国一宮)-竹島-猪群山 を結ぶ線、その補正内角は90.14゜ |
図K23では、下野国一宮である二荒山神社中宮祠から、西日本でもさらにストーンサークルの数の少ない九州の巨石ストーンサークルのある猪群山に90.14°の高い直角精度で到着しています。この図から見ると、これまであった「中世の・・・・」とする説は弱くなってしまいます。この現実を松本清張が知っていたとしたら、どのようなことを書いたでしょうか-
後の説明になりますが、環状列石が極めてまれにしか存在しない九州にまだ同様な例があります。ここまで来ると、偶然の出来事であるとか、恣意的な結線に過ぎないとした意見も消えるでしょう。そして古代人に対する常識や、古代の祭祀エリアについて、これまでの常識が間違っていたことを思い知ることと考えます。古代人はこのように竹島から環状列石に引いた線上に、鉱山を示す秘密の位置を示すように一宮を作ったのですから、その能力たるや恐ろしいほどのものを持っていたことになります。ナスカの地上絵と違って、誰も気が付きにくい方法にもかかわらず、その背景にはとても深い意味が込められていたことになります。
次はさらに驚くことがあります。一宮とストーンサークルによって、太陽の運行まで考慮していたことを、これまでと異なる明確な証拠で示す共に、本土と同じ古代の祭祀範囲が沖縄まで及んでいたことまでわかります。
2015.3.5 記
次は九州の米神山の頂上にある巨石ストーンサークルの例を図K24で示します。東北、北海道はストーンサークルがたくさんありますが、西に行くほどそれは少なくなり、九州では数えるほどかありません。そのまれにしかない巨石で知られているストーンサークルに、越中国一宮である気多神社を経由した線が90.03°と、これも神様が引いたようなすばらしい精度で米神山の頂上に到着しています。
米神山の頂上には不完全ながらストーンサークルがあり、このポイントも典型的な神社群中心の位置にあります。ここから出発したHSCP線は佐田京石(ここも神社群中心)から出た線と共に、さらに多くの神社群中心を派生し、そこから出た線は、大分県だけでなく、瀬戸内海の多くの島々、さらに山口県、広島県、愛媛県、高知県の神社にもつながります。驚くと思いますがこのストーンサークルを出た線はアーク伝説のある劔神社(徳島県三好市)にまでつながります。またストーンサークルを出た線の南側は、熊本県球磨郡水上村岩野1121付近にある不詳神社(神社群中心)へHSCPの規則で飛び、その神社群中心から鹿児島、宮崎方面の神社へと分岐して行きます。
図 K24 驚く直角精度を持つ気多神社(越中国一宮)-竹島-米神山 を結ぶ線、その補正内角は90.03゜ |
次は、同じ巨石によるストーンサークル・佐田京石の例を図k25示します。下野国一宮である宇都宮二荒神社を出発した線は、竹島を経由して90.15°のすばらしい直角精度で佐田京石に到着しています。米神山と佐田京石は平面距離で700mほどしかありませんが、どちらも神社群中心の条件を満足します。
したがって、それぞれの神社群中心を出発した線は周辺の同じ神社を経由して別々の神社へ直角の角度で到達することが多くなります。そのためHSCPで線引した図は大変に複雑になってしまいます。このように近距離に神社群中心があることは比較的に珍しいのです。
図 K25 驚く直角精度を持つ宇都宮二荒山神社中宮(下野国一宮)-竹島-佐田京石 を結ぶ線、その補正内角は90.15゜ |
次は、国内で最大のストーンサークルを持つ、大湯環状列石の場合を見て見ます。なぜかこの環状列石の位置はこれまでのように竹島-一宮の関係を見出すことはできませんでした。代わりにその条件にある神社群中心として、延喜式内社である沼名前神社が90.20゜の角度を満足することがわかりました。沼名前神社はかつては祇園さんと呼ばれていた神社のようです。「祇園」そのものが牛頭天皇を意味することもあると言われています。
摩多羅神はどこから来たのかには牛頭天皇について興味あることが書かれています。ここでも、はてはシュメールにつながることになっていますが、はたしてこれが関係しているかどうかは全くわかりません。もう一つ、興味があることは、先にも書いたことがあるように、縄文遺跡から金製品が全く発見されないとした大きな謎があります。その中で、はじめて大湯環状列石を発掘したとき、金鉱石も一緒に出土した記録があるのはとても気にかかる事実です。徳之島にイシャンダリ丘(鹿児島県大島郡伊仙町)と呼ぶ丘があります。もしかしたら、この意味は「イシュタル(戦いの女神)の丘」の意味ではないか-などと考えたりしていますがはたして当たっているでしょうか-
参考 ★石の宝殿、益田岩船とウッドサークル・ストーンサークルとの驚く関係
注;昭和17年7月23日~8月5日に大湯環状列石を発掘したとき、現場から金鉱石も一緒に出土した記録があります。これは、環状列石と鉱山との関連を示す証拠でもあります。この金鉱石がどこの鉱山から産出したものかなど、分析した結果をお持ちの方はぜひその詳細を教えてください。(参考 日本の環状列石 羽田正明著)
大湯環状列石は万座堂と野中堂の二つがあり約130mの間隔にそれそぞれの中心がある。 竹島からその二つを望むと約0.01゜(0.0085゜)の角度差が出る。 |
図 K26驚く直角精度を持つ沼名前神社(延喜式内社)-竹島-大湯環状列石、その補正内角は90.1970゜/90.1884゜ |
大湯環状列石の周辺からは掘立て小屋-の跡が見つかっています。その柱跡を拡大して地図に重ねたものが図K26です。
ストーンサークルの中心からその柱を望むと、ちょうど竹島と古富士ポイントの方向と一致しています。
赤の四角枠の四隅は遺跡の外周にある掘立て小屋の柱穴を示す。拡大して地図に重ねた。 図K27 万座堂中心から柱穴の方向を望むと竹島、古富士ポイントの方向と一致するものがある |
2015.3.10 記
★冬至の落日を示す、一宮とストーンサークル・縄文遺跡の不思議な関係
尖石遺跡 で尖石が出土した正確な位置を教えてもらおうと3月2日に尖石遺跡縄文館にメールで問い合わせをしましたが未だに梨の礫。埋蔵物を主にして仕事をしている専門の方々は、それ以外のことには全く関心がない人が多いようで、とても残念です。この遺跡は国宝にもなる縄文のビーナス、仮面の女神など、他の遺跡には見られない特徴のあるものが発見されていますが、HSCPから見ても全国まれに見る特異な位置にあります。以下の図を見れば、尖石遺跡の場所が、國學院大學・小林達雄名誉教授のお言葉を拝借すると、「第二の道具」が多く出る「第二の場所」そのものであると言えるでしょう。石器よりも、祭祀に使われたと思われる物が多い理由も納得できるはずです。
その理由の答えは下記の図K27からK30にそのヒントがあります。今回は、図の説明をしばらく省略していますので、ぜひ皆様でこの図から色々と考えて見てください。小林達雄名誉教授が主張を続けてこられた、古代人が正確に方位を知ることができ、太陽の運行まで認識していた確かな証拠が、これまで発表されたどの方法よりも明確に説明できるようになるはずです。それだけでなく、古代の祭祀範囲について常識を超えた広がりがあったことが小学生でも理解してもらえると思っています。
おそらく国としてまとまりのなかった時期に、このような広い祭祀範囲があり、地域によってそれぞれ異なる作り方の配石遺構を作っているにもかかわらず、その配列規則は全く同じであることは、原住民とは異なる桁違いに能力の高い「何らかの人」、折口信夫の考えた「まれびと」のような人達が存在していたと考えざるを得なくなるはずです。
妙義山の落日に関しては大工原豊様のページ からヒントをいただきました。先月、ここに書かれたメールアドレスにもお礼のメールをしましたが、残念ながら不達のメールとなっていました。妙義山を相馬岳と確定したのはHSCPによる線引の結果です。現在もここに正確に落日するかはまだ確かめていません。もしかしたら、ずれている可能性があります。このずれが地球の歳差運動による黄道傾斜角の変化によるものとすると、神社の位置が決められた時代を推定できる可能性を持っています。後にパソコンによるシミレーションも行って見る予定です。
先の理由で、メールを待つ間に更新が遅れてしまいました。待ちきれず、尖石遺跡の位置はHSCPによって求めました。計算ではなく、周辺の神社から来る直角線の収斂点として求めた点です。この位置は国土地理院の地図では遺跡の三つ目マークの下左側の位置になりました。高精度の計算から求めても、周辺の神社の位置のどの場所を選ぶかによっても収斂点がずれてしまうので、10m以内の精度を得ることは難しいかも知れません。
特に、国土地理院の地図は、神社の位置を示すドットの位置がかなりいい加減にマークしていることも災いしています。このずれは地域によってその傾向が異なり、恐らく地図を作った担当者の性格がここに現れているのではないかと苦笑しています。野村遺跡の位置も、先の縄文館に一緒に問い合わせたので、こちらも正確な位置がわかりません。したがって、計算に使用した位置は尖石遺跡と同じくHSCPの線引きで求めた位置を使って計算をしています。
尖石遺跡の位置は、遺跡ウオーカーから概略位置を知り、その付近の神社群中心を求めました。しかし、色々と検討するうちに、この位置は間違いではないかと思うようになりました。そこで、安中市教育委員会文化財保護課埋蔵文化財係に問い合わせたところ、 遺跡ウオーカー に書かれた位置は大きくずれていることがわかりました。
ここに書かれている位置はちょうど妙義山の相馬岳山頂と尖石遺跡を結んだ線の延長線であったため、それを疑わずに論考を進めてしまいました。こちらの早合点でご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。教えていただいた新しいポイントで新たな興味ある論考を進めているところです。現在、とても多忙ですぐに更新することはできません、しばらくお待ちください。図K31からはそのようなことがないように慎重に論考を重ねたものです。ここでもこれまで知られていない興味ある結果が出ています。
図K28 驚く直角精度を持つ益救神社(延喜式内社)-竹島-野村遺跡(環状列石)、その補正内角は90.12° |
図K29 驚く直角精度を持つ鹿児島神宮(大隅国一宮)-竹島-相馬岳(妙義山)、その補正内角は90.10° |
図K30 驚く直角精度を持つ新田神社(薩摩国一宮)-竹島-尖石遺跡(環状列石)、その補正内角は90.05° |
図K31 驚く直角精度を持つ波上宮(琉球国一宮)-竹島-鶴岡八幡宮(相模国一宮)、その補正内角は90.19° |
図K31をまさか-と考える人達が多いに違いありません。沖縄は本土と信仰が異なっていて、本土に相当する神社はないはず・・・・・・・。専門家ほどその傾向が強いと考えています。しかし、その考えが間違っていたことがわかるように、他の証拠をまだ沢山用意してあります。先にも書いたように沖縄に関わる古代史は民族学者の意見が先行し、歴史学者や考古学者は結局それに引きずり込まれてしまったようです。
確かに、沖縄の祭祀の中にあるウタキやグスクは本土にはないもので、沖縄の信仰は本土と異なっていたと考えるのは当然です。しかし、ウタキやグスクができる前に沖縄にも信仰があったはずです。民族学者はそれを忘れてしまったのです。旅館にとどまり、村人を呼び付けて話を聞く研究方法では、村人は本土と似ている話は避けるのが当たり前です。結局その学者は、谷川健一氏が北海道でしたと同じ間違いを沖縄でも行ってしまったのです。
注;さきに、阿川八幡神宮が天満宮から八幡宮に化けた実例を書きましたが、ここでも、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』(島田裕巳著,幻冬舎新書にある「八幡は外来,韓国の神だった!」とする記載が何の根拠もないことがかわかるはずです。縄文遺跡の位置を意識して配置された鶴岡八幡宮がなぜ韓国の神なのでしょう- 図K27から図K30を見ての答弁を期待しています。反論も大歓迎です。後に説明する太陽の運行だけでなく鉱山の位置までの関連がわかるとさらにそれが明確になります。
神の宮(海までつながっていると伝わる洞窟の真上にある |
例えば、沖縄県国頭郡国頭村辺土名22-3にある世神の宮(伊平屋島などにHSCP線を持つ神社群中心、安田のシヌグを経由して長崎県五島市・女島の神社へ90.43゜の線も持つ)などは、古くから本土の神社と同じように扱われていた神社に違いありません。民族学者はウタキやグスクに気を取られ、そのような神社をを見逃してしまっていたのです。それに考古学者も歴史学者もそれを鵜呑みにしてしまった感があります。先の神社や図K30にある波上宮だけでなく、沖縄の本土北端にある宇佐浜遺跡(沖縄県国頭郡国頭村辺戸)もHSCPで見る限り、本土と連続した全く同じ配列規則の位置にあります。
ウタキやグスクが係る信仰は王政が引かれた頃から行われたもので、それ以前は恐らく本土と同じような信仰が行われていたに違いありません。特に注意することは、イザイホーが残っていた久高島は、比嘉康雄氏等の尽力によって、神の島としてすっかり有名になりましたが、沖縄では特別な場所として考えないといけません。ここでは、真の沖縄の歴史の流れを示す姿はありません(久高島には現在も神社・寺院が全くありません、今のところ、この島に伸びるHSCP線も見つかっていません)。
久高島には、誰も住んでいなかった島(2000年前とされる貝塚がある)に、兄妹が百名から舟で到着し、鳥の交尾を見て交わり、子を産んだのが始まりとする説もあります。もしかしたらその兄弟は現在ラオスに住んでいる民族とつながりがあるのではないかと勝手に考えています。遺伝子の解析でそれが明らかになることを期待しています。
久高島のニラーハラー(沖縄本土ではニライカナイ)や現在も強く残っているオナリ神の信仰などはそのような人達が持ち込んだのでしょう。第一尚氏第七代の王(第一尚氏最後の王尚徳)が久高島の神女(後のノロ)と恋に落ちた悲話もあるように、第一尚王朝時代はその異国から来た宗教観に強く影響を受けたのではないかと考えています。その後、第二尚王朝時代に聞得大君(きこえのおおきみ)を頂点とした神女の組織が出来上って行きますが、そのときも久高島の神女が重要な位置におかれていただけでなく、国王が神女と共に久高島に渡って礼拝を行っていたことからもそれがわかります。学者の注目していた宗教観はこのような背景で生まれたもので、その裏にある沖縄本土で古来から続いてきた信仰を見逃してしまったに違いありません。
蛇足になりますが、下の写真は首里城内のウタキを神女が巡る百人御物参(ももそおものまいり)の再現の一部です。調査旅行の途中、幸運にも偶然このシャッターチャンスに出会うことができました。ここでは、守礼門の入り口を見て左側奥の池にある弁財天の位置は古代から何らかの神社があった位置であることがHSCPでわかりました。
首里城で行われる百人御物参(ももそおものまいり) |
2015.3.16 記
図 K32驚く直角精度を持つ高良大社(筑後国一宮)-竹島-寸沢嵐石器時代遺跡、その補正内角は89.76゜ |
以前にも書いたように、九州王朝説では筑後国一宮である高良大社の祭神、玉垂命が歴代倭王であったとの説があります。しかし、図K31の高良大社だけを特別に見ることに疑問を感じてしまいます。高良大社の発祥そのものも特別ではなく、しかも関東の縄文遺跡の位置と精密な幾何学的な関係を持っていることを考えると、九州王朝だけが特別であるとする理由を通史で説明しない限り説得力のないことになります。ただし、寸沢嵐石器時代遺跡の扁平な石を敷き詰めた敷石構造の配石遺構としては最も良く出来ていると考えています。しかし、この出来の差はその地域に於ける現地人の能力や人口、はては材料の入手の都合などに大きく左右されていると考えています。
いつも主張しているように、ここから見ても寸沢嵐石器時代遺跡は住居跡ではなく、祭祀用に用いられた何らかの構造物であることになります。最も大切な用途は位置を知るためであったことがわかります。寸沢嵐石器時代遺跡に行って見るとわかりますが、この位置は決して見晴らしの良い位置にはありません。そうしたことから考えると、位置を知るには適した位置ではないと考えることもできます。しかし、その位置の謎はいずれ明確になります。
牛石遺跡は直径約50mの環状列石(現在は埋め戻されている) | |
図 K33驚く直角精度を持つ千栗八幡宮(肥前一宮)-竹島-牛石遺跡、その補正内角は89.76゜ |
以前にK32とK33の竹島に於ける内角が89.76゜で一致していることは、この角度そのものが、偶然で生まれることが困難であることを示しています。
牛石遺跡から見て三ツ峠山山頂へ 秋の土用に落日する方向は三ツ峠山、牛石遺跡、寸沢嵐石器時代遺跡を結んだ線と完全に一致 |
図K34 寸沢嵐石器時代遺跡-牛石遺跡(大型環状列石)-三ツ峠山の配置図 |
図K35 牛石遺跡の大形環状列石の中心位置は三ッ峠山と寸沢嵐石器時代遺跡を結んだ線上ほぼピッタリの位置にある |
注;以下は2015.3.28日に書かれた記事で重大なミス(シミュレータに入れる遺跡位置の入力間違い)がありました。ここにお詫びをすると共に、以下の全文を訂正いたしました。2015.12.25 記
牛石遺跡にあった大型環状列石の中心位置は、寸沢嵐石器時代遺跡から、三ッ峠山に引いた線の真上にあり、ずれがほとんどありません。また、後に説明するように、HSCPで求めた正確な神社群中心の位置にあります。これは、古代人の位置を決める能力がきわめて高かかった証拠でもあります。同時に、ここでは春分を意識したものではなく、秋分を意識していたことが後に明らかになります。
注;図K34に小さな赤十字線で示した位置は大形環状列石の中心位置として都留市教育委員会による記録は北緯35度33分36秒、東経 138度53分56秒となっています。こちらは残念なことに緯度・経度ともに秒の値までしかありません。遺跡は現在埋め戻されていて、それを正確に確かめることはできません。そこで、とりあえず教育委員会の記録している遺跡の位置のデータを用いて1998年3月21日(春分)の日の落日をシミュレーションして見ました。この日を選んだ理由は「縄文ランドスケープ 小林達雄 編著」の166ページにある「牛石遺跡 春分 三ッ峠山への日没」に合わせたものです。
注;先の書籍で、三ッ峠山への落日の様子を撮影した日が春分の1998年3月17日となつていますが、この年の春分は3月21日です。
図K36 牛石遺跡から見た三ッ峠山の落日1998/3/21(春分)の落日(17時08分)の頂上より北側に落日 中途半端な位置に落日し、春分の日がいつかはわかりにくい 方位 83.760 高度 9.082 参考 縄文ランドスケープ 小林達雄編著 166ページ 古代人は春分ではなく、秋分を意識して遺跡の位置を決めていたことが明らかになりました。 |
シミュレーションの結果は図K36に示すようになり、頂上から北側にそれて落日しています。この状態では春分の日がいつかはわかりにくい状態となっています。これまで沢山の例をあげてきたように、古代人の方向を知る能力は極めて高く、このような間違いを起こすことはありません。このズレの起きる理由は天体現象にあります。地球の地軸の傾斜は一定ではなく、歳差運動や周辺の惑星の運動による摂動によりわずかですが動いています。その動きの主な周期は25,920年と長く、短い年度ではその動きを知ることができないほどわずかです。その動きによる、太陽の動きの具体的な影響は図K64のグラフなどで実例をあげて説明していますが、このような長い周期とは別に、年間のあいだでもわずかな動きがあり、秋分と春分では落日の位置がずれる現象が起きます。
図K37 牛石遺跡から見た三ッ峠山1998/9/23(秋分)の落日(17時08分) 中途半端な位置に落日し、秋分の日がいつかはわかりにくいが春分よりもがズレが少ない 方位83.454 高度 90.82 |
縄文ランドスケープ 小林達雄編著 166ページでは春分の落日を示していますが、秋分でも図K37に示すように三ッ峠山に落日し、わずかですが、より頂上に近い位置に落日します。これは地軸の傾きが一年の間でもわずか動にいていることによります。
図K38 牛石遺跡から見た紀元前2999/4/16(春分)三ッ峠山への落日 (17時04分44秒) 方位 84.057゜ 高度 9.051 古代では春分の日には山頂に落日することはなかった。古代人が春分を意図していなかったことがわかる。 |
春分と、秋分それぞれにおける落日位置の差は時代を遡るにしたがって大きくなり、縄文時代では図K38と図K39に示すように春分ではそのズレが大きくなってしまいますが、秋分ではより山頂近くに落日します。ここから、縄文人が図K34のように落日の位置に合わせて遺跡の位置を決定したのは、春分ではなく、秋分であることがわかります。
図K39 牛石遺跡から見た紀元前2999/10/17(秋分)三ッ峠山山頂への落日ほぼ頂上に落日する (16時55分35秒) 方位 82.720゜ 高度 9.355 (近似計算では頂上にぴったりと落日する年度はBC3220年) ステラナヒゲータに不具合があり、BC3000年以前の状態を正確に表示できない |
ここで、牛石遺跡から三ッ峠山の山頂を望んだ方位を得る目的で、下記緯度・経度を国土地理院の「距離と方位の計算」に入れると、
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ポイント |
緯度 |
経度 |
出発点 |
牛石遺跡 |
35度33分36秒00 |
138度53分56秒00 |
到着点 |
三ッ峠山 |
35度33分01秒.95 |
138度48分37秒93 |
ポイント | 緯度 | 経度 | |
出発点 | 牛石遺跡(都留市教育委員会の記録) | 35度33分36秒00 | 138度53分56秒00 |
到着点 | 三ッ峠山(1778mのビーク) | 35度33分01秒.95 | 138度48分37秒93 |
出力値として下記の値が出ます
測地線長 | 8,079.143(m) | |
方位角 | 出発点→到着点 | 262°33′44.59″ |
到着点→出発点 | 82°30′39.63″ |
一方、国土地理院の方位角は真北を基準とし、右回りの角度で示しているので、真南を0としているシミュレータ(ステラナビゲータ)の方位角に合わせるには180度をマイナスします。すると出発点の牛石遺跡から三ッ峠山(牛石遺跡から見えるピークは最高峰の1785.2mではなく、東側のピーク1778.7m)を見た方位は上の表の「出発点→到着点」の値から180度を引いて58度33分44秒59になります。
この方位を10進に直すと82.562度になります。
ここで、秋分の日の落日で、図K39でその太陽の方位を見ると、82.720度となっていて、紀元前2999年以前に三ッ峠山のピークに落日することがわかります。残念なことに、ステラナピゲータにBC3000以前では不具合があることがわかりました。メーカーに問い合わせをしていますが、不具合を認めたものの、まだその対策についての返事はありません。上記のシミュレーションの年度に切りの悪い2999年を敢えて用いたのはその理由によるものです。そこで、BC3000年以前のシミュレーションができないので、BC2499年からBC2999までの方位の変化率を用いてBC3000年以前の方位を近似的に求めました。
その結果、BC3220年に三ッ峠山の頂上に落日することがわかりました。次の項にある「★金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構が作られた年代」で求めた年代がBC2777年となっていて、両者では±200年ほどの開きがあることになりますが、今後さらに多くの例で確かめて行きたいと考えています。
上記にあった 2015.3.28 の記載に重大なミス(遺跡位置設定の誤り)が見つかり、2015.12.25に全面的な訂正をいたしました。
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図K40三ツ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代遺跡に対するピギーバック配列 |
三ッ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代の直線配列が偶然ではない証拠として図K40を示します。図に示すように、 三ッ峠山-牛石遺跡、牛石遺跡-寸沢嵐石器時代遺跡のそれぞれの線分に対して、若宮神社、南郷神社がピギーバック配列しています。しかも、三ツ峠山、牛石遺跡、南郷神社、寸沢嵐石器時代遺跡は神社群中心の位置にあり、周辺の神社から引いた直角線の収斂点になっています。
したがって、三ッ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代の直線配列は信頼性が疑問とされているレイラインと比較して桁違いに高い線であることがわかります。
2015.3.28 記
★神の山、大山(神奈川県)の秘密と勝坂遺跡から見たランドスケープ
以下の記載はこれまでの記載と異なり、記載順ではなく途中に挿入しました。書き順が前後しますがここに大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡の直列配置についての説明を挿入しました。とても残念なことですが、三ッ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代の直線配列は古代人が意識して配列したものではなく、偶然に過ぎないと考えている人達が未だに多いことに愕然としています。なぜ何の証拠もない通説を信じて、科学的に証明できる現実を直視しないのでしょうか-。そこで、この誤解を解く目的で三ッ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代の直線配列と良く似た大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡の直列配置の例を追加し、その誤解を解こうと考えました。
大山(神奈川県)は古くから山岳信仰の対象とされてきた山です。大山詣での目的に使われた大山街道は現在の国道246として使われ、その脇に今でも所々にその旧跡が残っています。また、山頂からは縄文時代の土器が検出されていて、「大山山頂遺跡」と呼ばれています。
このように古くから信仰されてきた山の位置をHSCPで検討してみました。まず、図K40に示した牛石遺跡と同様な結線が大山でもあるか試して見ました。その結果を図41に示します。驚くことに、ここでも①大山-②勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡の正確な直列配置を見ることができます。単なる三つのポイントが直列になる事象はいわゆるレイラインの手法と同じ信頼性であり、この直列配置も信頼性がないとした言い分もあるでしょう。しかし、この直列に配置されたポイントが神社のように数の多いものではなく、桁違いに数の少ない配石遺構を持った縄文時代の遺跡であることに注目しなければいけません。
さらに、①大山、②勝坂遺跡、③高ヶ坂石器時代遺跡の三つのポイントは単なる点ではなく、HSCPによる神社群中心であることです。しかも、図K41に示すように、線分①-②には⑥母智岡神社、線分②-③には④八幡神社と⑤塩田天地社のピギーバック配列を持つ特異な配列になっています。この理由により、信頼性が低いと言われているレイラインと比較して、桁違いに信頼性が高くなります。ここから、この配列が偶然ではなく、計画的に配置されたことを科学的に証明することができます。
①勝坂遺跡は神奈川県相模原市南区磯部にある遺跡で縄文時代中期前半の遺跡とされています。また①高ヶ坂石器時代遺跡東京都町田市高ケ坂にあり、縄文時代の中期末~後期の遺跡とされています。どちらも、扁平な川原石を敷き詰め、しかも一つの穴を持つ特徴的な配石遺構です。何度も書きますが、この遺跡は通説では住居跡とされていますが、決して住居跡ではなく、方位や太陽の運行などに関わる何らかの祭祀を目的とする構造物であると考えています。
図K41 大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡の直列配置とピギーバック配列 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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先ず驚くことがあります。図K42は大山-高ヶ坂石器時代遺跡の間に引いた線が、勝坂遺跡にある配石遺構(レプリカ、雨滴マークの先端にある)の真上を通ることです。言わばこの誤差はゼロに等しいのです。このような事象が偶然には決して起きないことを確率を知らなくても理解できるでしょう。
図K42 大山-高ヶ坂石器時代遺跡間に引いた線は勝坂遺跡にある配石遺構(水滴マークの先端)の真上を通る (誤差はゼロに近い) 注;勝坂遺跡にある配石遺構のレプリカは埋め戻した配石遺構の真上に作られています |
さらにも増して、驚くと言うよりもとても不思議な事象がここでもあります。図K33の牛石遺跡と同じように勝坂遺跡を出て竹島を経由した直角線が、肥前国一宮である千栗八幡宮に到着していることです。これまでたくさんの例をあげてきましたが、重要な意味のある竹島経由の直角線は高い直角精度を持って一宮に到達していることです。これは一宮が通例で言われているような神社ではなく、古代から特に重要視されていた神社であると認めざるを得ないでしょう。同時に、竹島そのものが古代から重要な聖域であった証拠を示しています。この件については後にまとめて説明する予定をしています。
図 K43 驚く直角精度を持つ千栗八幡宮(肥前一宮)-竹島-勝坂遺跡、その補正内角は90.34゜ (図K33参照、原点竹島) |
図 K44 驚く直角精度を持つ高良大社(筑後国一宮)-竹島-高ヶ坂石器時代遺跡、その補正内角は89.68゜(図K32参照、原点竹島) |
図K43が偶然の結果であると考えている人達に、さらに駄目押しの意味で図K44を示します。ここでは、高ヶ坂石器時代遺跡を出た線が89.68゜の高い直角精度で竹島を経由して筑後国一宮の高良大社に到達しています。言い換えると九州には論社を含めても十数個しかない一宮に正確な直角精度で線が到達しているのです。「倭国乱れる」と書かれる以前、すでにこのようなダイナミックな地理感を持った人達が実際にいたことは間違いないのです。高良大社が九州王朝の云々と言うような古代人が狭隘な地理感しか持っていなかったとする発想は考えなおさなければいけないと考えています。
さて、ここまでくると、当然にして考えられることは勝坂遺跡から見たランドスケープです。大山の頂上に落日する日は24節気に関係する何らかの日であることが期待されます。そこで、 シミュレータによる解析をしてみると、黄経がちょうど300度になり、24節気では第24番目の日に大山の頂上に落日することがわかりました。
24節気は中国では考古学的に確認されている最古の王朝、殷の時代(紀元前17世紀頃)にはすでにあったことが知られています。これと同じ考えであったかどうかを知ることは困難ですが、大山の頂上に落日する様子から、太陽の運行を知り、年間のうちに最も寒くなりやすい大寒の日を正確に知ることができるように遺跡が配置されていたことになります。図45では落日するポイントは少し左寄りに見えますが、背景になる山の頂上付近の分解能が低く、それが強く表現されています。大山の頂上に落日するポイントは地球の歳差運動の影響で年度によって、わずかにずれます。それは図45で見ると、およそ太陽の半径に相当するほどで、ここで仮定した年度(BC2000年)は比較的左側になっていて、年度によっては、さらに右側に沈む年度もあります、この様子から遺跡の直列配置が決められた年度を推測することも可能かも知れませんが、ここではそれを棚に上げておきます。
図45 勝坂遺跡から見た大山頂上の落日 (BC2000/02/05 16:37:32)大寒 太陽の方位61.4゜ 高度4.15゜ |
ここでまた、疑い深い人達は、大山に大寒の日に落日するのは、たまたま24節気の一つに偶然に出会ったに過ぎないと言うに違いありません。証拠のない不確かなものを頭から信じていながら、目の前にある科学的な現実から目をそらすのは一体どうしたことでしょう。ここで、もう一つの驚く証拠を示します。
大山の頂上には阿夫利神社の前社、本社、奥社があります。さらに、登山道の途中の標高680m付近の二重滝(関東大震災以前は)の脇に二重社があり、標高690m付近には阿夫利神社下社があります。他に稲荷神社などがありますが、この周辺の神社の神社群中心をHSCPで探索すると二重社が神社群中心であることがわかりました。この付近の神社では二重社が最も古くからあった様子で、周辺の神社はその後にできたに違いありません。大山阿夫利神社にある「大山石尊良辧瀧之図」に書かれた神社もおそらく現在の二重社の位置付近にあった神社ではないかと考えています。
注;二重滝の明治期の様子は「明治期に写された大滝」にあります。
図46 ①浅草神社-③二重社間に引いた線(赤線)は②勝坂遺跡のほぼ真上を通る、桃色線は線分①-②、②-③のピギーバック配列 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ここで、二重社と勝坂神社を線で結び、その線を延長すると浅草神社(東京都台東区浅草2)に行き当たります。この線は図K46の赤線で示した①-③の線になります。この線が勝坂遺跡のどこを通るかを示したものが図K47の赤色の線です。ここで勝坂遺跡にある配石遺構(レプリカ)は図47の赤い雨滴マークの先端にあります。この先端と赤色の線とのずれを見ると約27mずれています(注)。このズレは二重社から浅草神社までの距離約60Kmと比べるとわずか0.00045%しかありません。このような精度の配列が偶然に起きる大雑把な確率は20万回に1回しかなく、さらに、①、②、③の位置が神社群中心である特異性と、図K46に見られるピギーバック配列の半数近くが0.2度以内の直角精度に入っていることまで考慮すると、それが偶然に起きる確率はさらに桁違いに低くなり、偶然にしてこのような事象が起きることは決して考えられないので、この配列が計画的になされたと考えざるを得ません。
注;上記、27mのずれは図K47のgoogle mapによる値です。このあたりの微妙な値は地図の投影方法によっても変化します。古代人の方向認識と良く合致していると思われる、電子国土(旧版)のタイルを使用した場合はそのずれは約20mとなり、さらに少ない値になります。
図K47 二重社-浅草神社間に引いた線は勝坂遺跡にある配石遺構(赤色水滴マークの先端)のほぼ真上を通る (誤差は約27m、0.00045%) 注;勝坂遺跡にある配石遺構のレプリカは埋め戻した配石遺構の真上に作られています |
図K48 勝坂遺跡から見た冬至の日の大山鞍部(二重社がある)への落日 BC2000/1/6 16:22 方位57.94度 高度2.81度 |
ここで、先ほどと同じように勝坂遺跡から大山を望んだ場合の太陽の運行をシミュレーションをしてみます。すると、図K48に示すように冬至の日(黄経270゜)に大山の鞍部(ここに二重社がある)に落日します。
図K49 野村遺跡から見た冬至の日の妙義山鞍部(中之岳神社がある)への落日 BC2000/1/6 16:17 方位56.83度 高度3.53度 |
図K48で大山の鞍部へ落日する様子が納得できない人がいる可能性があります。しかし、なぜか、古代人は冬至の日の落日は頂上ではなく鞍部への落日を選んでいたようです。すでに掲示板のスレッド154に書いてありますが、典型的な例としては、図49に示すように、野村遺跡(群馬県安中市東上秋間字野村)から見た冬至の日の妙義山鞍部への落日です。この位置には中之岳神社があり、ちょうど大山の二重社に相当します。この前例を見れば大山の鞍部への落日も納得できるでしょう。
図K50 尖石さまから見た立春の日の守谷山への落日 BC2000/2/20 17:05 方位67.68度 高度2.44度 |
ちなみに、これもすでに掲示板に書いていますが、尖石遺跡の尖石さまの位置から見た守屋山(長野県伊那市)への立春の日の落日を図K50に示します。この場合は頂上に落日しています。これらの様子は周辺の神社のHSCPからも知ることができます。ここから古代人が太陽の運行を精密に知ることのができ、神社や遺跡の位置がその目的を得るために計画的に配置されていたことがわかります。
図 K51 驚く直角精度を持つ新田神社(薩摩国一宮)-竹島-寸沢嵐石器時代遺跡、その補正内角は90.08゜(原点竹島) |
ここでまた、とても不思議な事実を示します。図K46で決定された浅草神社の位置の秘密を図K51に示します。これまで竹島経由の直角線が一宮に到着する実例を数多くあげてきました。ここでも浅草神社から出た線は、正に神が決めたようなすばらしい直角精度で薩摩国一宮である新田神社に到着しています。この事実から見ても、竹島と一宮、縄文遺跡の位置が切り離すことのできない、密接な関係を持っていることがわかります。三社祭りで有名な浅草神社には、このような不思議で奥深い秘密が隠されていたのです。浅草神社の位置の秘密はこれだけではありません。後にさらに驚くとことがあります。
2015/9/14 記 (順番を前後して挿入)
掲示板のスレッド154について先に書きましたが、まだその詳細を書いていませんでした。そこでまず、田端遺跡(東京都町田市小山町)から見たランドスケープから説明します。冬至の日に田端遺跡から見た夕日が蛭ヶ岳の頂上に落日することは、当時町田市の職員であった松本司氏がはじめて報告しました。この発見については松本氏の著書「古代遺跡謎解きの旅 小学館の謎解き古代史シリーズ
1」に書かれています。また、「東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡亅にも我孫子昭二氏が田端遺跡についてエッセイを書かれています。
松本氏は風水の研究家で、この知見から田端遺跡から見た夕日が冬至の日に蛭ヶ岳に落日することを思い付いたようです。この発見はその後の縄文人が目にした景観を研究する走りとなり、「縄文ランドスケープ」へと発展して行くことになります。残念なことに、神社の配置から見ると、これまでその研究者が書いてきた内容が決して正しいとは言い切れないことが多いことがわかってきました。しかし、その中で松本氏の発見はHSCPから見ても間違いなくそのとおりであることがわかります。図K52はそのシミュレーション結果です。背景データの分解能が低く山のピークがあまりはっきりしていませんが、参考に示しました。
図K52 田端遺跡から見た蛭ヶ岳への落日 BC2000/1/6 冬至 方位57.24゜ 高度26.85゜ |
先に、三ツ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代遺跡、大山-勝坂遺跡-高ケ坂石器時代遺跡の例のように、山岳-縄文遺跡-縄文遺跡の三重点の実例を説明しました。ここで当然、蛭ヶ岳-田端遺を結んだ線かまたはその延長線上に縄文遺跡があるのではないかと確信しましたが、残念ながら該当する遺跡はありませんでした。そこで、蛭ヶ岳-田端遺跡を結んだ線の延長線上に乗る神社がないかを調べました。すると、三峰神社(埼玉県草加市高砂2丁目21)に行き当たる(その様子は図52)ことがわかりました。田端遺跡からおよそ50kmも離れたところにある神社です。いつものように、疑い深い人たちは、神社が多い中で線を延長すれば何らかの神社に行き当たるのは当たり前で、その線に意味がある訳はないと言うに違いありません。しかし、そのような考えはこれからすぐに否定されます。
図53は三峰神社(埼玉県草加市高砂2丁目21)から蛭ヶ岳まで線を引いた場合を図示しています。このとき、この線は田端遺跡のストーンサークルの中心から約40mほどずれた点を通ります。このずれは、三ツ峠神社-蛭ヶ岳間の距離約70kmと比較すると、0.00056%しかありません。ここでも、古代人の方向精度が極めて高かかったことがわかります。図の赤点は国土地理院の電子国土の地図上で当該枠内にある神社のすべてを赤点で示しています。このような縮尺でも蛭ヶ岳-田端遺跡に引いた線の延長線上に三峰神社があることがわかります。
図53 蛭ヶ岳-田端遺跡に引いた線の延長線が三峰神社に行き当たる様子(赤点は神社) |
さて、ここでも驚くことがあります。図54で示すように、偶然にして行き当たったようにも見える三峰神社から竹島を通り、長門国一宮である住吉神社に到達し、その角度が90.19゜の極めて高い直角精度を持っていることです。これは図K51と極めて良く似た事象です。たくさんある一般の神社と比較して、一宮の数はわずかしかないにもかかわらず、ここでも極めて高い直角精度で一宮に到着しているのです。同様な事象が何度も続けて起きることは本当に不思議としか言いようがありません。もし、三峰神社に偶然にして行き当たったとしたら、このように高い直角精度が滅多に起きることはないでしょう。
図 K54 驚く直角精度を持つ住吉神社(長門国一宮)-竹島-三峰神社、その補正内角は90.19゜ (原点竹島) |
ここでも、古代人がそんな能力があるわけがない、図53は恣意的に引いた結果によるもので、古代人の能力を示すものではないとまだ考えている人達もいるに違いありません。そこで、さらに周辺の神社との配列規則を見てみます。これまで何度も説明しているように、古代人が意図的に考えて配列したポイント間をつないだ線分には、ピギーバック配列と呼ぶ配列が必ずついて回り、それが確率から見て、明らかに有意な配列になっていることを何度も説明してきました。ここでも、その配列がないかを試して見ました。
図K55 蛭ヶ岳-田端遺跡、田端遺跡-三峰神社間の線分に対するピギーバック配列、赤線は田端遺跡から見た冬至の落日方向と一致 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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図K55は蛭ヶ岳-田端遺跡、田端遺跡-三峰神社間に引いた線分に対してピギーバック配列が成立するかどうかを試したものです。ここでは添付の表にもあるように、蛭ヶ岳-田端遺跡間の線分に対して7個、田端遺跡-三峰神社間に対しては67個ものピギーバックが成立しています。これまで何度も説明してきたようにこのような配列は神社の位置がランダムに配置していると仮定した場合とくらべて異常に数が多く、この神社の配列があらかじめ計画的に成されていたと考えざるを得ないのです。
しかも、冬至の日に田端遺跡から見ると蛭ヶ岳の頂上に落日するので、当然のことですが、三峰神社-蛭ヶ岳を結んだ図K55に示した赤線は、この落日の方向と一致していることになります。これは図K34で示した寸沢嵐石器時代遺跡から牛石遺跡を通り、三ツ峠山を結んだ線が落日方向と一致していることと相似になります。
ここで、さらに驚くことを書きます。図K51、K53などに見られる竹島経由の正確な直角線が古代人が計画的に配列したなどとても考えられないと言い張る人がまだ居るかも知れません。しかし、次の図を見たら恐らく声も出なくなるに違いありません。
図 K56 驚く直角精度を持つ高良大社(筑後国一宮)-竹島-田端遺跡、その補正内角は90.04° (原点竹島) |
図K56はそれを示したものです。この場合も田端遺跡から竹島を経由した線はまるで神が決めたような90.04°のすばらしい直角精度で筑後国一宮である高良大社に到達しています。何度も書きますが、一般の神社と異なり、桁違いに数の少ない一宮に正確に到達していることは、やはりこの配列が計画的に行われたとしか考えざるを得ません。本当に不思議なことがあるものです。
図K56と同じように、図K33にある寸沢嵐石器時代遺跡から竹島を経由する線も89.76°、図K44の高ヶ坂石器時代遺跡を出て竹島を経由する線も89.68°の高い直角精度で高良大社に到着していました。何度も言うように一宮は一般の神社と違って極めて分布密度の低い特殊な神社です、しかも出発点である遺跡も、敷石状配石遺構を持つ特異な縄文遺跡であることは、このような配列がとても偶然であるとすることはできません。ましてや、この到達点である高良大社の祭神が九州王朝の歴代倭王であるとするような、古代人が狭隘な地理感しか持っていなかったことを前提とする説は全く説得力に欠けることになってしまいます。
図の説明が前後しますが、勝坂遺跡については図K41に示した 大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡、の三重点、二重社-勝坂遺跡-浅草神社の二つの三重点があることを示しました。この遺跡はさらにほかの山岳とも同様な多重点を持ちます。
まずこれまでと同じように駒ヶ岳から勝坂遺跡に線を引きます。さらにその線をそのまま延長し行き当たる神社を探します。すると、香取神社(東京都北区赤羽西2丁目22−7)に行き着きます。次にこのポイントが神社群中心であり、周辺の神社から引いた直角線の収斂点であることを確認します。次に、駒ヶ岳-勝坂遺跡、勝坂遺跡-香取神社それぞれの線分に対してビギーバック配列が成立するかどうかを確かめます。
図K57 駒ヶ岳-勝坂遺跡-香取神社の三重点 |
以上の確認が終われば、駒ヶ岳-勝坂遺跡-香取神社が古代人が意図した三重点であることが推測できます。ここで、これまでと同じように三重点の端点である香取神社と竹島、一宮の関係を見てみます。
ここでまた、驚きの結果が出ます。やはりここでも香取神社を出た線は竹島で90.27°のすばらしい直角精度を持って薩摩国一宮である新田神社に到着します。本当に不思議なことがあるものです。
図 K56 驚く直角精度を持つ新田神社(薩摩国一宮)-竹島-香取神社、その補正内角は90.27° (原点竹島) |
説明が前後しますが、勝坂遺跡については図K41に示した 大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡、の三重点、二重社-勝坂遺跡-浅草神社の二つの三重点があることを示しました。この遺跡はさらにほかの山岳とも同様な多重点を持ちます。
まず、これまでと同じように駒ヶ岳から勝坂遺跡に線を引きます。さらにその線をそのまま延長し行き当たる神社を探します。すると、香取神社(東京都北区赤羽西2丁目22−7)に行き着きます。次にこのポイントが神社群中心であり、周辺の神社から引いた直角線の収斂点であることを確認します。次に、駒ヶ岳-勝坂遺跡、勝坂遺跡-香取神社それぞれの線分に対してビギーバック配列が成立するかどうかを確かめます。
以上の確認が終われば、駒ヶ岳-勝坂遺跡-香取神社が古代人が意図した三重点であることが推測できます。ここで、これまでと同じように三重点の端点である香取神社と竹島、一宮の関係を見てみます。地図上で検討すると勝坂遺跡から駒ヶ岳が小さいながら目視できるようです。しかし、一年中を通しても、ここから駒ヶ岳を見た角度に太陽が来ることはありません。したがって天体から見てこの線が意味することは今のところわかっていません。
ここでまた、驚きの結果が出ます。やはりここでも香取神社を出た線は竹島で90.27°のすばらしい直角精度を持って薩摩国一宮である新田神社に到着します。本当に不思議なことがあるものです。
図57 駒ヶ岳-香取神社間に引いた線の勝坂遺跡付近における差 (十字マークが勝坂遺跡の敷石遺構の中心位置) |
注;先の例のように、「延長した線上の神社に行き当たる・・・」の記載は7月に運用を停止してしまった国土地理院の旧版(プラグイン版)によって行った場合の記載です。地図の歪によって、うまく神社に行き当たらない場合もあるので注意が必要です。図57は駒ヶ岳-香取神宮のあいだに線を引いた場合、地図によってどのように変わるかをGoogleMapにまとめて示したものです。ここで配石遺構の中心からのずれは「GoogleMap」では128m、「地理院地図」では47m、「電子国土」では13mになっています。
赤線は「GoogleMap」、黄色線は国土地理院の「地理院地図」、青色線は運用を停止した「電子国土プラグイン版」によるものです。この違いは地図を平面に投影する方法が微妙に異なっていることが原因です。恐らく地図を持っていなかったと思われる古代人がどのような方法で方向を知ることができたかは未だに明確ではありません。しかし、100km以内の距離であると、運用を停止した電子国土の投影方法が古代人の認識していた方向と最も良く合っていることを経験で知りました。
そのような経緯があり、7月に「電子国土が運用を停止」したことは大きな損失となってしまい、その対策で精一杯の時期もありました。こんなこともあり、HPの更新もすっかり遅れてしまいました。幸いにも、旧電子国土と同じタイルを使ったと全く等価になる評価方法を思い付き、これまでと同じ精度で研究を続けることができるようになって安堵しているところです。そんなわけで、100kmを超える距離の方向について書いた「補正内角」はこれまでの電子国土と同じ精度で記載しています。また、100Km以下の角度は地図を利用せず、下記「注」に書いた計算で行っているので、地図の歪の影響を全く受けていません。この角度はこれまでと同じように「内角」と表示しています。
2015/9/24 記 (順番を前後して挿入)
これまで、山岳-縄文遺跡-神社群中心が直列になった例をあげ、最終の端点が遺跡ではなく、神社群中心として、三峰神社、浅草神社、香取神社の三つの神社が出てきました。この例は「日本は神社が多いのでなんらかの神社に行き着くのは当たり前だ」としてとして古代人が計画的にこの配列を行っていると考えようともしない頑固な人たちがまだ多く先の三つのの神社は恣意的な結線によるものだと未だに考えている人も多いでしょう。このような人たちは確率論も信ぜず、学問そのものをを否定している人たちです。未だに古代人がそんなに精密に方向を知ることができるわけはないと信じている人がたくさんいます。後の説明で、先の三つの神社が別の観点から見ても特異の点であることを知れば、そのような疑念はなくなるのですが、それより前にもっとわかりやすい三重点の例を説明いたします。
★金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ヶ岳への落日
ちょうどこの例を説明しようと考えているときに、とても都合の良い記載が山梨県のホームページに掲載されました。「遺跡トピックスNo.323国史跡金生遺跡(きんせいいせき)〔北杜市」とした9月24日の記載です。この例でも、金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日が冬至の日になるのは単なる偶然に過ぎないと覚めた見方をする人たちが未だにいます。縄文時代の人たちがそのような知識を持ちあわせているわけはないと本気で考えているのです。このような人たちが考えを変えてくれるように説明を急遽入れることにしました。
実はこの例もこれまで説明してきた山岳-縄文遺跡-縄文遺跡の三重点が直列となっている好例なのです。ここでは甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構が三重点となって直列に配列されています。
図K58 甲斐駒ヶ岳-中大塚縄文時代敷石遺構を結んだ線は金生遺跡のほぼ真上を通る |
図58はその全体図を示したものです。このように山岳-縄文遺跡-縄文遺跡の三重点が直列になっている例は
①三ツ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代遺跡 (図K34)
②大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡 (図K41、大寒)
③甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構 (図K58、冬至)
となり、図K58はその三例目になります。どの例も24節気に関係する太陽の運行と一致する線を持ち、しかも山岳の反対側に当たる端末の遺跡(寸沢嵐石器時代遺跡、高ヶ坂石器時代遺跡、中大塚縄文時代敷石遺構)はすべて扁平な敷石を持つ配石遺構となっています。この遺跡には、俗に「炉跡」と呼ばれている穴を一個持ちますが、柱穴に相当する遺構は見つかっていません。
かねてから主張しているように、この遺跡は住居跡ではないのです。しかも炉に相当する部分の石が焼かれた痕跡が全くない例があることから見ても、それが炉であるとする通説は絶対に間違った意見であることは明白です。どんな権威者がその穴が炉であると主張しても、ここまでわかってきたきた事例とは大きく矛盾しているのです。その穴が炉ではないとすると、その遺跡が住居跡であるとする根拠は益々薄れてきます。
次に、甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構 の直列の配列がどのような精度で配列しているかを示したものが、図K59です。
図K59 甲斐駒ヶ岳-中大塚縄文時代敷石遺構間を線で結んだ場合の金生遺跡付近を線で結んだ場合の金生遺跡付近を通る線 黄色の線は電子国土、青色の線は地理院地図、赤線はGoogleMap |
図K59は甲斐駒ヶ岳から中大塚縄文時代敷石遺構に線を引いた場合に金生遺跡付近を通る線を示したものです。ここで、黄色の線は「電子国土」(7月に運用停止)、青色線は「地理院地図」、赤色の線は「GoogleMap」をそれぞ使用した場合の違いを示しています。この違いについては先に説明した図K57の説明を参考にしてください。この遺跡の大きさは一番長いところをとっても60m程度です。ここでは、遺跡の真の中心の位置についてはまだ書いていないので、この位置を棚上げし、この線の誤差を大きく見ても遺跡の大きさ以内であると考えると、甲斐駒ヶ岳から中大塚縄文時代敷石遺構までの距離約90kmと比較しても、0.07%しかありません。これは古代人が遠方の方向を高い精度で決めることのできた決定的な証拠にもなります。
ここで、冬至の日に金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日がどのようになるかをシュミュレーションをして見ました。その結果を図60に示します。
図K60 金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ケ岳への落日2015/12/22 15:50 (山頂から外れている)方位54.2゜ 高度7.24゜ |
図K60を見ると明らかに山頂からずれています。一体このずれは何でしょう?・・・・図K59のズレでは観測できないほどのずれでしかないはずです。古代人が間違ってこのように遺跡を配置したとは考えられません。
実はこのズレの原因がわかると、驚くことがわかるのです。恐らく世界ではじめての成果であろうと思われる画期的な結論が出ます。
図K61 驚く直角精度を持つ鹿児島神宮(大隅国一宮)-竹島-中大塚縄文時代遺構、その補正内角は90.02° (原点竹島) |
その前にこれまでと同じように、中大塚縄文時代遺構から竹島を経由した直角線がどこに到達するかを見た図です。ここでも、まるで神が決めたような90.02°のすばらしい直角精度で大隅国一宮である鹿児島神宮に到達しているのです。これまで、同様な線を偶然に違いないと考えていた専門家はこの事実に声も出なくなるに違いありません。ランダムな配列で、このような直角精度の発生する大雑把な確率は5千回に一回程度しかありません。この事実を否定することは学問を否定することを意味します。
2015.10.12 記
図K62 金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ケ岳への落日BC2000/1/6 15:56 (ほぼ山頂に落日)方位53.25° 高度7.52° |
さて、前回の疑問、図K60で冬至の日の落日が山頂から外れていました。これは古代人の遺跡の位置の設定がいい加減であったせいでしょうか?、そんなことはあるわけはありません。これまで古代人が遠方の方向を極めて正確に知ることができたことは枚挙に暇のないほど実例をあげてきました。古代人がそのようないい加減の設定をする訳はありません。
そうです、古代人がそんなに間違いを犯すことはありません。これは天体現象によるもので、古代人が遺跡の位置を設定したとき、冬至の日には正確に甲斐駒ヶ岳の頂上に落日していたのです。この天体現象は地球の歳差運動などによるものです。この運動の主となる周期は25,920年とした長い周期ですが、4千年にもわたる長い期間になるとこのように現れてきます。
図K62は紀元前2千年1月6日(冬至、黄経約270°)の日の落日をシミュレーションした結果です。ここでは甲斐駒ヶ岳のほぼ頂上に落日しています。BC2,000年にしたのは単に切りのいい数字を仮に選んだだけです。(これに関する正確な議論は後に書く予定です)
正確な議論は後にして、この落日の様子から、縄文時代である今からおよそ4千年前、冬至の日に金生遺跡から望んだ夕日は甲斐駒ヶ岳の山頂に落日し、しかも遺跡から山頂を望んだ線は大塚縄文時代敷石遺遺構-金生遺跡を結んだ線の延長線と一致していたことになります。
言い換えれば、大塚縄文時代敷石遺遺構-金生遺跡の位置が決められたのは大雑把に見てほぼ4,000年前の縄文時代に決められたことになります。これは考古学的に見た遺跡の年代とほぼ一致していることになります。このように、古代人が太陽の運行を正確に把握する能力があり、しかもそれを利用するとができたその時期がおよそ4,000年前であったことを直接証明するものです。これは、14Cや年輪年代法とは別の方法で縄文遺跡の年代を決定した最初の証拠ではないかと考えています。
このページは書きかけです。
2015.10.18記
すっかりHPの更新が遅れてしまいました、10月は対馬と壱岐に調査に行くなど全く別の問題にも取り組んでいて、そちらの方に時間を取られてしまいました。続いて行く予定の、喜界島、奄美大島、種子島などを調査してからその結果を載せる予定でいます。ここでも、信じられないような発見が続いています。
それはさておき、ここで図K62からの続きを書きます。
図K62はシミュレーションの年代を切りの良いBC2000年としました。ここでさらに時代を遡ってBC3000年としたらどのようになるかを示したものが図K63になります。
図K63 金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ケ岳への落日BC3000/1/13 15:57 (ほぼ山頂に落日)方位53.17° 高度7.52゜ |
図K63を見るとK62と比較して、向かって左側にずれていることがわかります。ここで、古代人が図K58をイメージして落日の様子をを意図した年代はBC2000から3000年ほどであることがわかります。ここでは1000年もの開きがありますから、目視ではなく、数値を使って詳しく調べて見ることにします。
まず、冬至の日に金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日がどのように変わるかを年度別にシミュレーションをしてその結果を表1に示しました。この計算は地球の歳差運動だけでなく、周辺の惑星の運動による摂動、地球の自転速度の変動まで考慮した精密なもので、太陽の位置の精度は角度で秒単位の精度を持つと言われています。また図K64は表1の結果を表にしたものです。
年度 | 冬至 | 時間 | 方位(度) | 高度(度) | 黄経(視位置) |
AD2015 | 12月21日 | 15:48:34 | 53.989 | 7.454 | 269度49分54秒 |
AD2000 | 12月21日 | 15:48:32 | 53.985 | 7.455 | 269度42分21秒 |
AD1000 | 12月16日 | 15:50:43 | 53.805 | 7.454 | 270度32分54秒 |
AD1 | 12月23日 | 16:52:38 | 53.654 | 7.454 | 270度16分36秒 |
BC1 | 12月23日 | 15:52:46 | 53.625 | 7.455 | 270度31分34秒 |
BC1000 | 12月30日 | 15:54:43 | 53.454 | 7.456 | 270度19分31秒 |
BC2000 | 1月6日 | 15:56:25 | 53.317 | 7.455 | 270度31分55秒 |
BC2400 | 1月8日 | 15:56:33 | 53.271 | 7.456 | 269度42分04秒 |
BC2500 | 1月9日 | 15:56:49 | 53.264 | 7.455 | 269度59分41秒 |
BC2600 | 1月10日 | 15:57:03 | 53.258 | 7.455 | 270度16分53秒 |
BC2800 | 1月12日 | 15:57:06 | 53.241 | 7.456 | 269度51分53秒 |
BC2900 | 1月12日 | 15:57:18 | 53.236 | 7.456 | 270度08分50秒 |
BC2950 | 1月13日 | 15:57:24 | 53.235 | 7.455 | 270度17分10秒 |
BC3000 | 1月13日 | 15:57:33 | 53.235 | 7.455 | 270度26分12秒 |
表1 年度別冬至における金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日 |
紀元前(-符号)横軸(年度)、縦軸方位(度) | 紀元後横軸(年度)、縦軸方位(度) |
図K64 地球の歳差運動などによる金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日点の年度別変化 (高度7.455度) |
表1で落日点の方位は南を0度として表示しています。したがって、この方位角が下がるほど南方向に落日点が向かうことを意味します。言い換えると、図62、図63では方位角が下がるほど向かって左側に落日点が移ることになります。
★金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構が作られた年代の決定
ここで金生遺跡から甲斐駒ヶ岳を望んだ方位を見る目的で、下記緯度・経度を国土地理院の「距離と方位の計算」に入れると、
|
ポイント |
緯度 |
経度 |
出発点 |
金生遺跡 |
35度50分53秒71 |
138度23分06秒22 |
到着点 |
甲斐駒ヶ岳 |
35度45分28秒63 |
138度14分12秒38 |
出力値として下記の値が出ます
測地線長 |
16,734.322(m) |
|
方位角 |
出発点→到着点 |
233°15′52.98″ |
到着点→出発点 |
53°10′40.68″ |
一方、国土地理院の方位角は真北を基準とし、右回りの角度で示しているので、真南を0としているシミュレータ(ステラナビゲータ)の方位角に合わせるには180度をマイナスします。すると出発点の金生遺跡から甲斐駒ヶ岳を見た方位は上の表の「出発点→到着点」の値から180度を引いて58度15分52秒98になります。
この方位を10進に直すと53.247度になり、この値を図K64に適応するとBC2,700年あたりの方位と一致しそうなことがわかります。さらに細かく、この付近の年代についてシミュレーションを行うと下記表に示すように、紀元前2,777年1月12日(冬至)の日にその方位が53.247度となり、完全に一致することがわかりました。
年度 |
冬至 |
時間 |
方位(度) |
高度(度) |
黄経(視位置) |
BC2,777 |
1月12日 |
15:57:15 |
53.247 |
7.2454 |
270度16分27秒 |
図K65 縄文人が紀元前2777年1月12日(冬至)に金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日 |
図K65は図K62、図K63と同じようにも見えますが図K65が紀元前2,777年1月12日(冬至)の金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日です。言い換えると図K58で示した金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構の位置はこの日の落日をもとにして決められていたことになります。
これまで、縄文時代の遺跡の絶対年代を知る比較的に確かな方法として、14Cまたは年輪年代法の二つがありましたが、ここに新しい方法が加わったことになります。ここから金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構の遺跡が作られた年代がBC2,777年頃であることがわかったのです。ここで、同様な遺跡の配置を見つけ、さらに多くの例で検証すれば、縄文時代の遺跡の作られた年代が次々と明らかになる可能性が出てきたことになります。
注;ここで得られた年代は次にあげる誤差が考えられます。まず、古代人が基準とした金生遺跡の正確な位置です、今回は石棒の検出された付近でシミュレーションを行いましたが、HSCPで求めた遺跡の中心位置はこの位置よりも東側の未発掘の位置にあることがわかっています。さらに、遺跡から駒ヶ岳を見上げた迎角もまだ近似値です。気差の問題や正確なジオイド高を考慮すれば、さらに精度が上がります。
ところで、国際縄文学会のホームページに新津健氏(元山梨県埋蔵文化財センター所長)の書かれた『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義』 に興味深い記載があります。金生遺跡からは猪の骨がたくさん検出されましたが、その多くが幼獣の骨であったことです。春に生まれた猪が冬至の頃になると、その骨の大きさに達する可能性があるそうです。とすると、その骨は冬至の日にあった何かの祭祀に使われた可能性が考えられるのです。現在も残っている宮崎県西都市銀鏡の銀鏡神楽(しろみかぐら)や日ユ道祖論でもイサクの燔祭と相似であると取り上げられている諏訪大社の御頭祭などの関係を見ると興味の尽きないものがあります。
また、本土から遠く離れた伊豆七島・八丈島にある倉輪遺跡でも、元来生息していなかった猪が検出されています。もしかしたら、この猪も祭祀に用いる目的で本土から連れて行ったことも考えられます。出典を忘れてしまいましたが、東北の縄文遺跡で幼獣の猪しか検出されないことから、その時期は食料が極度に欠乏していたとする記載を見た記憶がありますが、この結論も先の事実を併せると、再検討を迫られのではないでしょうか?。
2015.12.22記
このページは書きかけです。
注;角度の計算は、国土地理院「距離と方位角の計算」で計算しています。
計算式はこのサイトからリンクしています。(公式に認められている計算式です)。
「補正内角」は、この式で、屈曲点から対象ポイントまでの測地線長が100kmを超える場合、屈曲点から約100km地点における線上のポイントを取り、その値を同じ計算式に入れた値です。(楕円体モデルはGRS80)
補正内角の表示のない単に「内角」としている角度は、屈曲点から100kmの位置ではなく、実際の対象点の位置で計算したものです。いずれ、これらも「補正内角」に訂正する予定です。
線を引いている地図は国土地理院の「電子国土」です、新しい「地理院地図」が公開され、2014年の3月限りで「電子国土」は停止になる予定でした。 しかし、この研究には不可欠な地図なので、特別な計らいで延期させていただきました。こんな理由もあり、事情を良く知らない人は、この地図をうまく使うことが出来ない可能性があります。
その後、旧システム停止予定期限の近づいた時点で、さらなる運用の延長をお願いしましたが、今年(2015年)の7月に「電子国土」は運用停止になってしまいました。これまで、国土地理院からは電子国土のシステムを私の研究に合うように多くの改良をしていたたいたおかげで、大きな研究成果を得ることができ、とても感謝しております。しかし、今年の7月にはとうとう旧システムは廃止になってしまいました。システムの廃止を決定した責任者は電子国土システムの責任者である情報普及課長とのことです。未だに、このような頭の堅い人がいることは残念でなりません。
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★日本とギリシャの共通した聖地の決め方
4月28日に更新して以来、一ヶ月以上も更新を怠ってしまいました。4月はじめからギリシャとトルコへ旅をしてきました。その旅から戻った直後、ほとんど休む間もない状態で沖縄本島、宮古島、多良間島と調査旅行に行ってきました。ちょうど、牛石遺跡について書いた直後にギリシャとトルコに向けて出発しました。そこで、ギリシャにある多くの遺跡を見ている間に、 ギリシャでは聖地の決め方が日本と似た方法で決めているのではないかとする例が見つかりました。それを簡単にまとめて日本とギリシャの共通した聖地の決め方に置きました。ここではすでに先に書いた記事と重複する部分が多くありますが、日本とギリシャに於ける聖地の決め方に共通する部分があることを示しています。
また、沖縄の調査旅行では、多良間島の神社の呼び名が御嶽に変わってしまったものがありましたが、どれも鳥居のある立派な神社そのものでした。私が全国の神社を見てきた中では、このようにしっかりと神社が守られている例を見たことがありません。たいていは一部の神社が荒廃したままになっている例が多い中で、多良間島の神社はどれも整備が行き届いているだけでなく、生活の中に溶け込んだ状態に置かれている様子にも見えました。今回は、ちょうど、立派なコミュニテイセンターが完成し4月16日にその落成式が行われていました。これまで神社で行われていた行事の一部もこちらに移る可能性もありますが、このような状況がいつまでも続くことを願っています。多良間島の神社の配列については後に発表する予定ですが、ここでも本土と同じ神社配列があり、これまであった沖縄の神社の常識が間違っていたことが明らかになります。
さて、ここでふたたび牛石遺跡に戻ります。ここにもその概要を書いたように、牛石遺跡の例のように山岳(神社群中心)-環状列石または木柱列の(神社群中心)-遺跡や神社などの神社群中心と直線状に並んだ三重点と、それに付属したピギーバック配列(頂点も神社群中心)として直列になった配列は新しい発見です。この発見により、これまで発表されてきた、太陽の運行と遺跡との関係をさらに明確に説明をできるようになると考えています。 そこで、図K39に戻りさらに詳しく説明することにしました。図K39を見て未だに信じられないと考える人は多いでしょう。そうですね、神社と縄文遺跡は時代が異なると考した常識を信じている限りそれは当たり前の考えでしょう。
ギリシャに出発する直前に小林達雄名誉教授から送られて来た参考文献のコピー「縄文世界から神社まで」にも「神社は言うまでもなく縄文時代にはなかった。弥生、古墳時代にもなかった。それは縄文以来の伝統とは無縁であり、古代に新しく登場したものである。・・・・・・・」と書かれています。はたしてこの記載は正しいのでしょうか-。牛石遺跡の神社配列を詳しく検討するとこの記載に大きな疑問を生ずるに違いありません。
2015.5.8記
★縄文ランドスケープは果たして実在したか-
先に書いた大工原豊様のページにもあったように、「八ヶ岳の蓼科山、丹沢の蛭ヶ岳などいずれも高峰で、その地域を代表する山の一峰である。今、具体的な根拠を挙げられないが、縄文人の何らかの思いが反映していると見て良いと思われる。逆に、これを偶然と考えるのは難しい。」 とあります。しかし、代表とする山岳と遺跡を結んだ方向が太陽の出没の方向と一致したことだけを取り上げて、古代人が意図して遺跡をその位置に配置したと断定するには少し無理があります。
これは、先の「」内の記載は、太陽の出没する山岳の特定の位置が遺跡(観測地点)から見た見た線と一致している事象を偶然と考えることは難しいと言っていることになります。しかし、これは次の記載と矛盾するところがあります。例えば、「レイライン」にも書かれているように、ランダムに配置された点でも、そのいくつかが偶然直線上に配置される例は意外にも多く、それだけを取ってこれが意図的に配置されたと考えることは難しいとしています。
言い換えれば、先の「・・・・逆に、これを偶然と考えるのは難しい。」とした記載は「期待」であって、科学的な判断ではないことになります。かつて、掲示板に「天体に関係したことを自信を持って書けない理由」にも書いたように、天体の現象と神社や遺跡の配置が古代人が意図したものであると断定するにはそれなりの確かな理由が必要です。
「★冬至の落日を示す、一宮とストーンサークル・縄文遺跡の不思議な関係」では、直列になった3点が単なる点ではなく、神社群中心(周辺の神社から引いた直角線の収斂点」であり、偶然では起きにくい点であったことから間違いないと考えて発表しました。しかし、皮肉にも、ここで使った遺跡の位置がずれていて、たまたま論考しやすくなっていたに過ぎないことがその後になってわかりました。
このピンチを救ってくれたのが、牛石遺跡の例です。ここでは、図K39にも示したように、「三ツ峠山」-「牛石遺跡」-「寸沢嵐石器時代遺跡」が直線上に完璧な精度で配置されていて、その三点がすべて神社群中心の位置にあることです。さらに、二つのピギーバックの頂点にある「若宮神社」、「南郷神社」のどちらも神社群中心であるとする極めて特異な状態になっていることです。このように、特異な点を結んだその延長線上にぴったりと落日するのです。このような、特異な事象が重なることは偶然には絶対に起きることはないでしょう。
さらに、その後説明する予定ですが、先にあげた神社群中心から引いた線は、単純な線の集合ではなく、見事な構造を持ちながら周辺神社の配列を決めていて、それが千葉県まで及んでいます。この事実をを知ったら、もうそれが偶然の結果ではないかと疑う人はいなくなるでしょう。
しかし、ここでは、「神社の位置と縄文遺跡の位置を同列に考える」としたこれまでの全く常識の範囲を超えた考えを受け入れざるを得ません。専門家ほどこの考えを許容することができないことは良く承知しています。
そこで、念のため牛石遺跡と同例がないか、現在全国を探索中です。ところが、牛石遺跡の例のように、山岳の頂上-縄文遺跡-縄文遺跡とした例は未だに見つかっていません。それほど牛石遺跡の例は全国でも極めて稀な例であることがわかりました。とは言うもの、思っていなかった理由で、この探索は北海道からはじめ、まだ他の地域は抜き取り程度にしか行っていません。それは次のように条件を変更して探索した結果があまりにも良い方向に向かった理由によるものです。
その後、牛石遺跡とは別に、縄文遺跡-山岳-縄文遺跡の三重点が見つかりました。もちろん、ここでもピギーバック配列を持ち、その頂点は神社群中心になっています。
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2015.5.25 追記
まず、先の条件は厳し過ぎることがわかり、「縄文遺跡」-「縄文遺跡」となる条件を「縄文遺跡」-「神社群中心」と変更して探索の条件を少し下げることにしました。
その条件は、
①山岳の特異点(神社群中心)-神社群中心-神社群中心とした三つの直列になった神社群中心の三重点を持つ。
②ピギーバック配列を持ち、その頂点も神社群中心にある。
このように条件を下げ、その検証を北海道の北部からはじめたところ、すぐに利尻山(北海道利尻郡利尻富士町)-三吉神社(敏音知岳、北海道枝幸郡中頓別町)-風烈布不詳神社(北海道枝幸郡枝幸町風烈布)の直列線が見つかりました。三吉神社から両端を見た角度のずれは0.67度と少し大きめですが、敏音知岳での頂上での位置のずれは34mのずれでしかありません。
ここで、ピギーバックを見ると利尻山-三吉神社の線に対して神社名がわかりませんが枝幸郡枝幸町風烈布に仮名とした風烈布不詳神社があり、この頂点の内角は90.01度となり、まさに神業に相当する直角精度になりました。距離が短いせいか三吉神社-風烈布不詳神社間に相当するピギーバック配列は見つかりません。しかし先の四点がすべて神社群中心の条件を満足することがわかりました。これは大変な驚きでもあり、これまでにない大発見です。
これは日本とギリシャの共通した聖地の決め方でも予想していた大発見になりそうです。早速、他の地域も探索しましたが、次々と該当ポイントが見つかり、これまで探索の難しかった中心のわからない遺跡の中心位置も比較的簡単に見つかるようになりました。この方法から、ストーンサークル(朱円環状土籬)、オムサロ遺跡、西月ヶ岡遺跡の中心位置が見つかりました。すぐには信じてもらえないと思いますが、未知の遺跡の中心位置を10mくらいの精度で予測することも可能になるかも知れません。
この発見はHSCPを”フン”と言って横を向いていた人達の完璧な敗北を意味します。これまでHSCPでは縄文遺跡や特定の神社が神社群中心の位置にあると言うことしかわかっていなかったのですが、これが山岳と正確な配列規則を持っていることが明確になったのです。現在この新しい発見を考慮して北海道全域に渡って線引きをしていますが、驚くことばかりです。まだ遺跡の発見の少ない日高地方を除くと、遺跡と山岳との関係だけで、ほぼすべての神社に対してHSCPによる線引が完了できるのではないかと見込んでいます。この過程で日高地方に新しい未知の遺跡を発見できる可能性もあります。
予期していたことですが、この探索の過程で、新下川の廃坑跡もこの新しい線引の上に乗ってきました。神社と鉱山の関係をさらに強くする新しい発見です。また、先に書いた西月ヶ岡遺跡は擦文土器時代の遺跡とされていましたが、元々は縄文時代の遺跡がその後も引き続いて使われてきた可能性が大きくなってきました。この遺跡の中心位置は北緯43度19分00秒27 東経 145度33分24秒49で国土地理院の地図に表示されている遺跡マークの中心から190mほど西北西の位置になりました。この詳細はオムサロ遺跡の中心位置、なども合わせて
後に示します。
まだこの項の題目である「★縄文ランドスケープは果たして実在したか-」まで書いていませんが、もしかしたら、「縄文ランドスケープ アムプロモーション」に書かれていることは牛石遺跡のように間違いであったり、単なる期待に過ぎず、その多くは科学的な確証の得られないものである可能性が大きくなってきました。また、当然の結果になりますが谷川健一氏の主張されていた、北海道の神社が明治期にできたとする説もここで完全に崩れます。
2015.5.22記
その後の経過をここで書かせてもらいます。牛石遺跡の三重点と落日点が一致していることを発見してから、研究は急加速で進展しています。いきなり書いても信じる人は少ないと考えていますが、北海道の縄文遺跡の位置の解析がほぼ終わりました。国土地理院の地図に表記された縄文遺跡のほとんどが山岳と神社の配列に正確な幾何学的関係を持っていることが明らかになったのです。やはり、神社の配列と縄文遺跡、山岳の位置とは密接な関係があることは絶対に間違いないのです。明治期にできたと常識的に考えられている神社にこのような配列規則があることに驚き、まさか-と考える人は多いでしょう。しかし、これは疑いのない事実です。
さらに牛石遺跡だけでなく、関東地方の縄文遺跡と神社の関係も新しい発見が続いています。例えば、縄文ランドスケープ アムプロモーションでは、寺野東遺跡と筑波山、冬至の落日との関係や小山修三氏の「天文観測と祭りの場」とする説がなど書かれています。
そこで、寺野東遺跡の位置を検討したところ、ここで最も強く意識されている山岳は筑波山ではなく、90kmも離れた榛名富士(1390m)であることがわかりました。それでは、筑波山は間違いかと言うとそうも言い切れないところがあります。寺野東遺跡と筑波山、加波山(茨城県桜川市)なども三重点ではないもの、山岳-遺跡とそれに付随するピギーバックの明らかな配列を持っていることがわかりました。しかし、シミュレーションの結果からは、これを二十四節気と結びつけるには無理があることがわかりました。
これと同じ例が北海道でもありました。環状列石(ニセコ)と、ウサクマイ遺跡が羊蹄山に対してそれぞれ三重点を持っています。しかし、西崎山ストーンサークルや忍路環状列石は羊蹄山に対して山岳-遺跡とそれに付随するピギーバックの配列となっていて、先の筑波山、加波山の例と同じになっています。
また、北海道では、すでに中心位置が推定できたオムサロ遺跡は、西月ヶ岡遺跡と驚く関係にあったり、狩場山(北海道島牧郡島牧村)のように460kmも離れた位置から参照され、正確な三重点を構成している例もありました。また、音江環状列石(北海道深川市)は北鎮岳(北海道上川郡東川町)を参照し三重点を構成しています。同じ、北鎮岳は他の二重の直列になった神社群中心からも参照されていて、その線上に未発見の遺跡の存在を予告する例もありました。
また、山岳と遺跡の距離が近い場合は直列になった三重点がない例が多いようにも思いますが、一概にそうも言い切れないところもあるようです。先の寺野東遺跡と榛名富士の関係は後に説明するように、三重点以外に強い幾何学的相関があることも明確になってきています。さらに、これも予期されていたことですが、この配列の中に明らかに本山坑跡(栃木県日光市)が組み込まれています。これは北海道に於ける新下川の廃坑と同じ意味に取らないといけないと考えています。
何はともあれ、縄文遺跡と神社の配列が切り離せないことが益々明確になってきました。「神社間に線を引いて何がわかるか-、そんなことをするならコンビニ間に線でも引いたほうが増しだと言い続けてきた人達に再度書かせてもらうと。その人達は正に、「月から帰還した宇宙飛行士に向かって、月には兎がいるはずだ」と主張していると同じことを言っているのです。地図に一度も線を引いたこともないにもかかわらず、良くわかっているようなことを言い続けている人達が現在もたくさんいることは残念でなりません。
縄文遺跡と神社、山岳の関係が小学生でもわかるように明らかになるのはもうすぐです。くだらない意地を捨ててご自分で地図に線を引いて見ることをおすすめします。このときは地図の持つ固有の歪を良く理解していることが必要です。距離が100km以内にあるときは、国土地理院「距離と方位角の計算」を用いると地図の歪とは無関係に、正確な角度がわかります。ぜひ今のうちに心の準備をしておいてください。
2015.5.29記
ところで、牛石遺跡で発見した山岳と遺跡の関係について書きましたが、常識的には明治期に造られたとされている北海道の神社を例にしたので、益々HSCPに疑いを持った人が増えてしまったようです。そうですね、神社に配列規則があったり、縄文遺跡と関係しているなど、これまで誰も予想したことすらない常識外れのことを書いているので、このようなことはどこかの間違いであってほしいと考える人は多いでしよう。
特に、「神社間に線を引いて何がわかるか-」と本気で考えていた人達は、なおさらです。北海道の神社でそのようなことを言っていることはやはりどこかに決定的な間違いか何か作為的なことがあるに違いないと期待しているに違いありません。残念ながら、そのように考えている人達が未だにたくさんいるのが現状です。
それにも増して、「邪馬台国(邪馬壹国)はどこか-」を考えることが古代史の研究であると思っている人達のほとんどは、神社のことなど全く頭にありません。そして、神社が古代史に関係するなどとんでもないと、本気で考えている人もさらに多くいます。それは、これまで、いい加減な思い付きで神社の位置について書かれた書籍がこれまで多くあり、それが勘違いか、ただの興味の本位であったり、不確かを承知で、売るためが目的であったのものでしかなかったことも大きく影響しています。
そんなこともあり、、神社の位置から、歴史を考えることなど、とてもできるわけはないと諦めている人達に、考えを改めてもらうような実例を新しい発見を元にして説明をいたします。
そこで、牛石遺跡から発展した、山岳-神社群中心-神社群中心のパターンを本州の典型的な縄文遺跡で試すことにしました。そのなかで、典型的な縄文遺跡は環状木柱烈を持つ遺跡を取り上げます。この遺跡は、半截された木柱列に使用された、栗材の伐採年代が年輪年代法で確定されている遺跡です。
参照;★石の宝殿、益田岩船とウッドサークル・ストーンサークルとの驚く関係
注;C14年代測定による石川県真脇遺跡出土環状木柱列の年代決定
★石の宝殿、益田岩船とウッドサークル・ストーンサークルとの驚く関係の図S65でも説明したように、石の宝殿(兵庫県高砂市阿弥陀町生石171)を起点とすると、北陸にある環状木柱列と東北にある環状列石が直列の状態にあることを説明しています。しかし、ここではそれぞれの環状列石がその直線上にあることを説明できたものの、なぜそれぞれの点がそこにあるかは説明することができませんでした。ここで、先に書いた新しく発見した条件である
①山岳の特異点(神社群中心)-神社群中心-神社群中心とした三つの直列になった神社群中心の三重点を持つ。
を入れると、その謎はすぐに解明できることがわかりまました。ここで、真脇遺跡から水晶岳(富山県富山市、2986mのピーク)を見ると、その線上に少彦名神社(富山県魚津市北山475)があり、誤差ゼロで完璧な直線になっています。すなわち、真脇遺跡-少彦名神社-水晶岳の三重点が成立し、しかもそのすべての点が神社群中心であることがわかります。
同じように、桜町遺跡の環状木柱列では桜町遺跡-神明宮(富山県富山市八尾町水谷1266)-水晶岳の三重点が成立します。もちろん、この三つの点は神社群中心の特性を持っているのは言うまでもありません。
次は、もう一つの環状木柱列のあるチカモリ遺跡では、意外にも白谷山((岐阜県高山市、2,188m)を参照していました。槍ヶ岳や穂高など並みいる高峰のあるアルプスの中からこの山が選択された理由は今のところわかりません。葦嶽山をピラミッドとした日本のピラミット研究家でもあった酒井勝軍のリストにもない山ですが、この山は地図から見ると山頂付近は三角形のピラミット状の形状をしていることがわかります、この形状が古代人が選択した理由になった可能性があります。しかし、坂井勝軍のリストから漏れた理由は山頂付近の形状が四角錐ではなく三角錐状であったことかも知れません。
注;葦嶽山は、八幡宮(岡山県総社市日羽231)-伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀740)と極めて正確でしかも神社群中心の特性をもつ三重点を持ちます。もちろん、ヒギーバック配列も持っています。このような三重点は酒井勝軍の教えがなければ簡単には見つからなかったでしょう。
ここでは、チカモリ遺跡-板屋神社(石川県金沢市袋板屋町チ1番)-白谷山が三重点になります。この場合の誤差もゼロで、チカモリ遺跡-白谷山に引いた線が板屋神社の真上を通ります。もちろん、チカモリ遺跡、板屋神社、白谷山のそれぞれは神社群中心の特性を持っています。白谷山の頂上が神社群中心であることを知り、これまで長い間命題となっていた上高地・明神池の脇にある穂高神社奥宮の位置の謎が解けました。この命題を与えてくれたHSCPの良き理解者でもあった隣人が3月に鬼籍に入ってしまい、この報告が間に合わなかったことが残念でなりません。
以上のように、真脇遺跡、桜町遺跡、チカモリ遺跡に関わる三重点について説明しました。ところで、ここでピギーバックについてはまだ説明していません。もちろん上記三例の三重点では、それぞれの線分間に正確なピギーバック配列が成立しています。ただし、その数は一つではなく、一つの線分に対して数多くあり一言では書けないからです。環状列石の周辺は海域や山間部が多く、神社の分布の極めて薄い地域でも正確にピギーバックが数多く成立しているので、HSCPが偶然の結果であろうと未だに考えていて、常識から抜けられない人達も、この状況を見ると、何の答弁もできなくなります。ぜひ、ご自分で線を引いて確かめてください。
先に、並みいる高峰のなかで、三重点の参照先として水晶岳と白谷山が選ばれた理由はいまのところ良くわかりませんが、三重点よりも条件を下げて単にピギーバック配列を持つ山岳-神社群中心の配列は他にたくさんあります。ここではそれを省略し後に詳しく説明します。
次に、木柱列は持ちませんが、これまで何回も登場してきた遺跡で、小林達雄國學院大學名誉教授とも縁の深い長者ヶ平遺跡(新潟県佐渡市)を例にとると、この遺跡は男体山(栃木県日光市)と三重点がある一方、守門岳(新潟県三条市)と数多くのピギーバック配列を持ちます。さらに、弥彦山(636m)の頂上にある弥彦神社ともピギーバック配列を持ちます。また、小林名誉教授が名誉館長をしておられる、馬高縄文館のある馬高遺跡は、石動神社(新潟県長岡市三瀬ケ谷202)とともに同じ弥彦神社と三重点を持ち、同時に諏訪宮(新潟県長岡市中野東1047)を頂点とするピギーバック配列で守門岳(新潟県三条市)とつながります。
今度は遠く離れた九州の縄文遺跡を例にすると、日本最古の水稲耕作跡を持つ菜畑遺跡では、繁昌不詳神社(佐賀県武雄市朝日町大字中野8107付近、)を経由して、正確な直線で経ヶ岳(長崎県大村市、1075.7m)に達して三重点を作っています。同時に天山(佐賀県小城市、1046.2m)と碑田不詳神社(佐賀県唐津市北波多稗田、186.2mのピーク付近)を頂点とするピギーバック配列をしています。HSCPによる菜畑遺跡の概略中心位置は、北緯33度27分07秒42、東経 129度57分30秒13で、国土地理院の地図に表示された遺跡マークの中心位置から45mほど北側になります。
次に、旧石器時代から中世までの複合遺跡である吉武高木遺跡の位置を検討して見ました。この遺跡のHSCPによる中心位置は国土地理院の遺跡マークのほぼ中心のわずか西になっていることがすでにわかっています。(googleの地図では遺跡の位置が異なる)この遺跡の位置は非常に特徴的で、沖ノ島(福岡県宗像市)にある沖津宮から下田神社(福岡県柳川市蒲生1130)まで引いた線が吉武高木遺跡のほぼ真上を通ります、ここで沖津宮-下田神社間の線を干字状パターンの上部横棒とすると、吉武高木遺跡から古富士ポイントに引いた線が干字状パターンの縦棒、すなわち古富士線となっているとした特異な位置にあるだけでなく、吉武高木遺跡から竹島を経由して古富士に到達する線も直角の補正内角を持つとした極めて特異な位置にあります。
しかも、沖津宮-下田神社間に引いた線は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市)のHSCPによって求めた中心位置(北緯33度19分32秒14、東経130度23分02秒78)の真上を通っています。これらの精度は誤差が認められないほど精度が高く、偶然ではあり得ないような精度になっていて、弥生時代の遺跡とされている吉野ヶ里遺跡が縄文時代にすでに位置が決まっていたことをうかがわせる位置にあります。そこで、この推測がはたして正しいかどうかを試して見ました。
先ず、吉武高木遺跡から釈迦岳(大分県日田市、1229.5m)を見ると、その線上ぴったりの位置に素盞鳴神社(福岡県小郡市祇園1丁目1−1)があり、吉武高木遺跡-素盞鳴神社-釈迦岳の三重点があります。もちろん、すべてが神社群中心の特性を持ち、ヒギーバック配列も成立しています。
さらに、吉武高木遺跡から英彦山の頂上付近にある英彦山神社(福岡県田川郡添田町)に引いた線では、複数のピギーバック配列が成立しています。しかも、吉野ヶ里遺跡から英彦神社に引いた線の上で残り1.5kmほど手前に玉屋神社(福岡県田川郡添田町英彦山)があり、吉野ヶ里遺跡-玉屋神社-英彦山神社の三重点となります。その三点は神社群中心の特性を持ち、吉野ヶ里遺跡-玉屋神社の線分に対しては老松宮(福岡県飯塚市八木山)が、玉屋神社-英彦神社の線分に対しては中宮(福岡県田川郡添田町英彦山)がピギーバック配列の頂点になります。この様子は実際に見ると、玉屋神社-英彦神社間の距離が吉野ヶ里遺跡-玉屋神社間の距離約52kmに対して極端に短いにもかかわらず、きちんと中宮のピギーバック配列に相当する神社があるのが、少し滑稽に見えるほどです。
このように、吉武高木遺跡も、吉野ヶ里遺跡も周辺の神社と同じ思想で配置されていることがわかります。ここから見ても、弥生時代とされる二つの遺跡の位置は縄文時代からすでに決まっていたことが確かではないかと考えられます。
以上に実例をあげて、牛石遺跡に関わる三重点の発見が、北海道だけでなく、全国の遺跡の位置の意味を知る重要な発見であることを、説明しました。そして、この意味がわかると「神社間に線を引いて何がわかるか-」と考えていた人達は「月から帰還した宇宙飛行士に向かって、月には兎がいるはずだ」と主張していると同じことを言っていると書かれた意味を良く理解できるでしょう。
2015.6.5記
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